相撲界に大きな影響を与え続けた元横綱北の富士氏(本名:竹沢勝昭氏)が82歳で逝去していたことが報じられました。
その波乱万丈の人生と相撲界への貢献を詳しく振り返ります。
北の富士氏の生涯:相撲界の伝説的存在の軌跡
北の富士氏の生涯は、相撲界の歴史そのものと言えるほど波乱に富んでいました。その軌跡を辿ることで、日本相撲の変遷と魅力が浮かび上がってきます。
- 名門出羽ノ海一門からの破門と横綱昇進の劇的な展開
- 10度の優勝を誇る実力派横綱としての活躍
- 千代の富士、北勝海など後進の育成に尽力
- NHK解説者として鋭い洞察力を発揮
- 派手な行動と数々の逸話で相撲ファンを魅了
- 相撲界のご意見番として絶大な存在感
- 82歳7カ月の生涯、最長寿横綱への挑戦
北の富士氏は、1942年3月28日に北海道美幌町で生まれました。
運動神経抜群の少年時代を過ごし、野球の名門北海高校からも勧誘を受けるほどでした。
しかし、同郷の元横綱千代の山の誘いを受け、相撲の道を選択します。
1957年初場所に初土俵を踏んだ北の富士氏は、当初は細身の体型で苦労しましたが、師匠の交代を機に近代的な部屋運営に転換し、体格も向上。
稽古に励んだ結果、順調に出世していきました。
1966年名古屋場所後に大関昇進を果たし、その後も実力を発揮し続けました。
波乱の横綱昇進と10度の優勝:北の富士氏の輝かしい現役時代
北の富士氏の横綱昇進への道のりは、決して平坦ではありませんでした。
1967年初場所に九重部屋として再出発し、春場所で初優勝を飾ります。
1969年九州場所での優勝後、横綱昇進が期待されましたが、銀座通いなどの品行問題で却下されるという挫折を経験します。
しかし、1970年初場所で連覇を達成し、盟友玉の海と同時に52代横綱に昇進。
その後、通算10度の優勝を果たし、実力派横綱としての地位を確立しました。
北の富士氏の相撲スタイルは、左四つ、突っ張り、寄り、外掛けを得意とし、185センチ、135キロの恵まれた体格を活かした力強い相撲で多くのファンを魅了しました。
特に、人気横綱貴ノ花との好勝負は、相撲ファンの記憶に深く刻まれています。
また、物言い続きの因縁の勝負では、時に日本中の敵役となることもありましたが、それも北の富士氏の魅力の一つでした。
引退後の活躍:千代の富士、北勝海を育てた名伯楽
1974年名古屋場所で引退した北の富士氏は、その後も相撲界に大きな影響を与え続けました。
引退後すぐに井筒部屋として独立し、3年後には九重部屋を継承。
ここで、北の富士氏は名伯楽としての才能を遺憾なく発揮します。
特筆すべきは、弟弟子だった千代の富士の育成です。
北の富士氏は千代の富士を「ウルフ」と命名し、速攻相撲に変身させることで、横綱まで育て上げました。
また、北勝海(現八角理事長)も横綱に育て上げ、2人の横綱で10連覇を含む弟子の39度優勝という、当時最多の記録を打ち立てました。
この実績は、北の富士氏の指導力と洞察力の高さを如実に示しています。
さらに、1986年からは理事に就任し、審判部長、新設広報部長などを歴任。
理事長候補とも目されるほどの存在感を示しましたが、1998年に高砂一門理事候補から外れると、潔く退職しました。
NHK解説者としての活躍:鋭い洞察力と歯に衣着せぬ論評
退職後、北の富士氏は1998年春からNHK解説者として新たなキャリアをスタートさせました。
ここでも、北の富士氏は独自の存在感を示し続けました。
力士や土俵に対する厳しい論評は、視聴者から高い支持を得ました。
特に、一流横綱としての経験に基づいた一刀両断の分析は、他の解説者には真似できない説得力がありました。
また、相方とも言える舞の海氏との意見や予想の食い違いも、視聴者を楽しませる要素となりました。
北の富士氏の解説は、単なる技術的な分析にとどまらず、相撲の精神性や伝統、さらには力士の心理面にまで踏み込んだ深い洞察に満ちていました。
これは、現役時代から引退後の指導者時代まで、相撲界の第一線で活躍し続けた北の富士氏ならではの視点でした。
時には年を感じさせる場面もありましたが、それも含めて視聴者に親しまれる存在でした。
北の富士氏の人間性:プレイボーイ横綱から粋な元親方へ
北の富士氏の魅力は、相撲の技量だけでなく、その人間性にもありました。
現役時代は「プレイボーイ横綱」とも呼ばれ、派手な行動で話題を呼びました。
例えば、休場中にハワイでサーフィンを楽しみ、厳重注意を受けたエピソードは有名です。
また、引退相撲では初めてタキシードを着て歌うという、前例のない演出で観客を驚かせました。
しかし、このような行動が批判の的になることはあっても、北の富士氏の人気が衰えることはありませんでした。
それは、彼の行動が単なる自己顕示欲からではなく、相撲界に新しい風を吹き込もうとする真摯な姿勢から生まれていたからでしょう。
引退後は、しばしば着物姿で解説席に座る姿が印象的でした。
これは、相撲の伝統を重んじつつも、自身のスタイルを貫く北の富士氏の姿勢を象徴していると言えるでしょう。
「人生を満喫して旅立った」という表現が、北の富士氏の生き方を表すと言えるのではないでしょうか。
北の富士氏の相撲界への貢献:改革者としての側面
北の富士氏の相撲界への貢献は、単に優秀な力士、指導者としてだけでなく、改革者としての側面も大きいものがありました。
彼の現役時代から引退後の活動は、常に相撲界に新しい風を吹き込み続けました。
例えば、九重部屋の運営では、当時としては画期的な近代的手法を導入しました。
これにより、力士の体格向上や稽古の効率化が図られ、結果として多くの優秀な力士を育成することに成功しました。
また、理事時代には新設された広報部長を務めるなど、相撲の魅力を広く伝える活動にも尽力しました。
これは、相撲の人気低迷が叫ばれる中で、重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
さらに、NHK解説者としての活動は、相撲の技術的側面だけでなく、その精神性や文化的価値を一般視聴者に伝える重要な役割を果たしました。
北の富士氏の鋭い洞察と率直な物言いは、時に物議を醸すこともありましたが、それが相撲界に新たな議論を巻き起こし、発展のきっかけとなったことも多々ありました。
最長寿横綱への挑戦:北の富士氏の最後の闘い
北の富士氏の人生最後の挑戦は、最長寿横綱の記録更新でした。
歴代横綱の最長寿は明治時代中期の初代梅ケ谷で83歳4カ月。
現代では元横綱初代若乃花が82歳5カ月、栃ノ海が82歳10カ月で亡くなっています。
北の富士氏は「若乃花さんを超えて最長寿横綱に」と話していましたが、82歳7カ月でその願いは叶いませんでした。
しかし、この挑戦自体が北の富士氏らしさを表しています。
常に目標を持ち、挑戦し続ける姿勢は、現役時代から変わることがありませんでした。
最長寿横綱への挑戦は、単なる記録への執着ではなく、相撲界への貢献を生涯続けたいという北の富士氏の強い意志の表れだったのでしょう。
結果的に記録更新は果たせませんでしたが、最後まで相撲界を盛り上げ続けた北の富士氏の生き様は、多くの人々の心に深く刻まれることでしょう。
北の富士氏の遺産:相撲界に残した大きな足跡
北の富士勝昭氏の逝去は、日本相撲界にとって大きな損失です。
しかし、彼が残した遺産は計り知れません。
現役時代の10度の優勝、名伯楽としての弟子の育成、そして引退後のNHK解説者としての活躍。
これらすべてが、日本相撲の歴史に深く刻まれています。
特に、千代の富士や北勝海といった名横綱を育て上げた指導力は、今後の相撲界にとって大きな指針となるでしょう。
また、歯に衣着せぬ率直な物言いは、相撲界に新しい風を吹き込み続けました。
この姿勢は、伝統を重んじつつも常に進化を求められる相撲界にとって、重要な役割を果たしてきました。
北の富士氏の生涯は、相撲に捧げられたと言っても過言ではありません。
その情熱と献身は、今後の相撲界を担う若い世代にとって、大きな励みとなることでしょう。
北の富士氏の遺志を継ぎ、日本相撲がさらなる発展を遂げることが、彼への最大の供養となるのではないでしょうか。

